周知のとおり本書は歴史や地域の研究書ではない.現代の非アラブ系イスラム諸国(インドネシア、イラン、パキスタン、マレーシア)を著者が旅して,国家の将来を与る政治家から市井の人に至るまで様々な人と会い、話を聞いた結果まとめられた紀行文である.著者自身は「人を描いた本」であり,「意見の書」デハナイトイウ.
著者はカリブ海のトリニダード出身で,インド系の移民の三世にあたる.オックスフォード大学で英文学の学位を取得してのち,ポストコロニアル時代を代表する作家として世界的に知られ,2001年にはノーベル文学賞も受賞している現代文学の作家である.ところで評者には現代文学の視点から本短評を書く力量はない.イスラムが影響力をもつ地域に関心を抱く人間として,本書にひきつけられたことが短評を投稿する契機となった.
序において著者は,「作家も前面に出ることはせず,質問者としての存在は希薄である」と述べている.さらには,「旅行者としての作家はたえずうしろに引っ込み,その国の人々が前面に出てくる.そして,私は出発点の私に戻る」とも述べている.
だが本書を読んで,一族の故郷からも,また移住先においても文化を奪われた著者自身の,非アラブ系イスラム諸国における人々に対するある種の思いが前面に出ていることを強く感じた.アラブではないイスラムへの改宗者は,伝統的に保持してきた自らの文化を捨て,イスラムを育てたアラブの文化を採用していかなければならないと著者はいう.
著者はイスラムに対してどちらかというと否定的な態度をとっている.むしろイスラムを帝国主義的だとも言及している.欧米先進国を植民地主義的,帝国主義的と糾弾する,イスラムを主張の一部とする者たちがいるが,そうした集団もまた,著者によれば帝国主義的とみなされるのである.
例えばヒンドゥー教徒とムスリムとの対立が膠着化していた1960年代のラホールでの出来事を,インフォーマントから著者は次のように引き出している.
「ラホールの町の群衆たちが,ただ棍棒だけを持って、不信心なヒンズー教徒たちに聖戦を挑んだのです.それは食い止める必要がありました.彼らはイスラム学者から突撃命令を受けていたのですから.面白いのは,当のイスラム学者は群衆を率いていなかったことです.彼は泰然とモスクに座っていただけなのです」.
著者のイスラムとその学者に対する視線は冷たい.しかし決して一方的なものではない.著者は自分の言葉で以下のように分析している.
「そのイスラム学者が信用できないということ,そしてどこから見ても倫理的な人間ではないということは,さほど重要ではない.彼は指導者を自任したわけではないのである.彼のイスラム学者としての職務は,改宗した人たちを励まし続けることであり,鼓舞の必要がある場合には,その脳裏に地獄と天国を描いてみせ,その時が来ればアラーのみがすべてを裁くと言えばいいのである」.
研究書ではないゆえに,著者のこうした見解や分析が必ずしも客観性に基づいているとはいえないことは十分承知している.だからこそ,アイデンティティの一つのよりどころとなる伝統文化を喪失した著者の目からは,新改宗者に対してイスラムは帝国主義的だという判断が引き出される.前面に押し出されたこうした著者の主観的立場こそ,地域研究の視点から本書に対して関心が引かれたのである.
現在でもイスラムが拡大しつづける四カ国について,著者の提示するこうした現状を研究者としてどう説明するか,是非とも一読をお勧めしたい一書である.
原著
V. S. Naipaul, Beyond Belief: Islamic Excursions among the Converted Peoples, London: Little, Brown and Company, 1998.
主な書評・対談等
Akash Kapur, "One Little Indian, V. S. Naipaul and the new South Asian Politics," Transition 0-78 (1998): 46-63.
富山太佳夫(毎日新聞朝刊 2001年6月10日11面)
山内昌之(日経新聞朝刊 2001年3月4日)
三浦雅士「現代作家の姿勢」『大航海』1998年2月号
(慶應義塾大学文学研究科後期博士過程 阿久津正幸)