岩波講座世界歴史刊行の有終の美を飾る(もっとも別巻は未刊)本書には、11 本の論攷がおさめられている。
まず、「構造と展開」と題される総論部では、羽田正が「三つの『イスラーム国家』」、すなわちオスマン朝、サファヴィー朝、ムガル朝の比較を試みる。羽田は、単に三王朝を概説的に描写するのみならず、各個独自の関心と伝統によって研究されてきた三王朝をあえて共通の問題意識と枠組みで切ることによって、それぞれの王朝(とその治下の社会)を研究する人々に彼らの研究から抜け落ちている視点を提示しようと試みる。行論において羽田は、自分の問題発見の過程をも書き込んでおり、それは羽田が各所でその出現への期待を書き記しているところの意欲ある若い研究者にとって、「ものの考え方」を学ぶ上で有用であろう。羽田の三王朝に関する理解の当否についての見解、その提言への回答が当該の領域を研究する方々からこの文献短評欄へも寄せられれば幸いである。
次に、「境域と局所」では、まず近藤信彰が「イラン、トゥラン、ヒンド」で、表記の 3 地域にまたがるペルシア語文化圏の諸相を描く。論文の各節は、君主間の書簡、勅令、詩人伝、地方史といった史料類型ごとに建てられている。それらの節が各史料類型の性格に忠実であるために論文全体としてのまとまりをつかみにくいところもあるが、16 〜 18 世紀のペルシア語文化圏における諸論点を様々な史料類型にひきつけて描いた構想は新しい。「境域と局所」第 2 ,弟 3 の論文は、福田安志「ペルシア湾と紅海の間」、長島弘「インド洋とインド商人」であり、前者はヤアーリバ、ブーサイード朝のオマーンとサウード朝を中心に、アラビア半島と一部東アフリカ海岸部での変動を主に政治的側面からわかりやすく概説するもの、後者は 16 ,17 世紀のインド系商人の活動を交易相手地域別に総合的に記述するものである。「限られた紙幅での総合化」は、私のような事情に疎い読者には大変有用であった。
「論点と焦点」におさめられる諸論文の先頭をきるのは、林佳世子「イスラーム法の刷新」である。これはワクフ物件のイジャーレテイン契約という従来認められていなかった法行為が、一般に広がり法的にも受容されてゆく過程を検証したもので、イスラーム法の柔軟性を強調する近年の研究動向を手堅い事例研究を通じて一般の読者に伝えている。次の宮武志郎「ユダヤ教徒ネットワークとオスマン朝」は、スペイン出身のナスィ家がオスマン朝治下に落ち着くにいたるまでの経緯を、このような一般書の内容としては少々詳しすぎると思われるほどに追究したものである。ところで、文中での事実確定に際して、「〜にちがいない」といった推測が多く使われているのはいかがなものだろうか。黒木英充「前近代イスラーム帝国における圧政の実態と反抗の論理」は、「国民」、「民族」といった概念が浸透する前にオスマン朝の圧政が臣民にどのように観念されていたかを、アレッポでの総督追放劇に見いだそうとする。フランス風の言葉使い(会計簿= bilan か?)といい、随所にみられるくだけた語り口といい、著者は楽しみながら読者に語りかけるように書いている。
以上の 3 論文がオスマン朝治下の社会を扱っているのに対し、続く 2 論文はムガル朝を検討の対象とする。まず佐藤正哲「ムガル朝の国家権力と土地制度」では、遊牧国家的脆弱性を内包していたムガール王朝権力がアクバルの諸改革によっていかに「インド・モンゴル王朝」に変身したかが上部の統治機構から土地制度にいたるまで手際よくまとめられる。その羽田的意義づけは「構造と展開」で示されているところである。つづいて小名康之「ムガル朝とヨーロッパ」では、ムガル朝宮廷とポルトガル人(およびイエズス会)、オランダ人、イギリス人らの関係が編年的に記述されている。私は自然と同時期の日本での出来事を想起しながら読みすすめた。つづいて、藤田みどり「日本人のアフリカ認識」は、戦国時代から帝国主義の時代にいたるまでの日本人の黒人認識をあとづけたものである。ヨーロッパ人の言説に日本人の黒人像が固定化されてゆくさまは、あらためて我々の他者認識の危うさを再確認させてくれる。語る声を持たせてもらえなかった人々も不幸であるが、無知ゆえの驕慢はもっと不幸である。気をつけねばなるまい(否!ここでイスラーム地域研究の必要性を訴えるべきであろう)。巻末を飾るのは深見奈緒子「建築から見たイスラーム・環インド洋世界」である。深見はここで西のオスマン朝建築と東のムガール・サファヴィー・中央アジア建築を二つの軸として対比しながらイスラーム・環インド洋世界の建築をその理想を体現する諸傑作と、より現実に適合した都市建築の両面から論じる。「環インド洋世界を一貫する建築様式を創出した事実は指摘できない」という一言は建築史の専門家の言葉として重要であろう。
以上、各論文について批評をするにはスペースも足りなければ私の能力も及ばない。個別論文に対する短評を広くこうところである。ここでは、本全体の読後感を述べるのみとしたい。
私は、本全体の構成に関し、どうしてもまとまりに欠けるという印象を押さえることができなかった。表題の広大な地域設定に応えようとする論文は羽田、近藤、長島、深見論文のみであり(もっとも「論点と焦点」という範疇の諸論文にそのような要求をするのは筋違いであろうが)、どうも表題としての地域設定だけあってあとはみんなそれぞれの研究史にのって書くべきことを書いたという感じである。これはまさに羽田が乗り越えようと試みている研究史・研究関心の乖離を反映したものであろう。できれば、「構造と展開」でのみならず、全巻を通じてたこつぼ横断の提言がなされればよかったと思うが、それはやはりないものねだりだろうか。この点、同シリーズの 10 巻『イスラーム世界の発展』などは、はなから「イスラーム史」という枠に安住できて幸せだったと思う。
そもそも地域設定自体が無理だったのかもしれない。イスラーム・環インド洋世界全体をひとつとみる、より本格的な提言を岩波講座世界歴史シリーズとして行う特別な意図がなかったのならば(多分あったのだろうとは思うが)、とりあえずイスラーム世界と環インド洋世界とを分ける、あるいは陸の世界と海の世界とを分けるというような別の巻の建て方もあったのではないだろうか(そうすると巻数が増えてしまうが…)。羽田自身みとめるように、この巻が圧倒的に陸の歴史を扱っているのをみるにつけ、そのような思いを強くする(日本にも海の世界で一冊建ててそれが成立するくらいの研究の蓄積はあるのではないか?)。
短評に書く気楽さでこれ以上いろいろ書きつらねていると筆がすべってしまいそうである。好きなことだけ言って、この辺で終わりにしたい。(森本一夫)