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Knowledge and Social Practice in Medieval Damascus, 1190-1350
Michael Chamberlain
Cambridge University Press, Cambridge, 1994
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既に三浦徹氏による書評(『東洋学報』 79-1,1997 年)があるので、詳細はそちらに譲りたい。むしろ、チェンバレンがしばしば引き合いに出す「宋代中国」を研究している立場から一言。
チェンバレンの指摘からもうかがえるように、西欧と比べて「ネガティブ」な側面を強調するのが、従来の「比較史」にありがちな陥穽であったかもしれない。このことは、中国史研究においても同様である。足立啓二氏の専制国家論に対する岸本美緒氏の危惧(『歴史学研究』 No.722,1999 年)も、チェンバレンと相似た問題意識から出たものであろう。
では、イスラーム史から、中国史から、いかなる「ポジティブ」な像をつくりだせるのか。本書を読んで、その模索の一つが、期せずして共に、「知」のあり方を問うことから始まっていることを感じた。
また本書では、知の「実践」という概念のヒントが、社会学者ブルデューから得られているが、やはり中国史でもブルデューについての議論がしだいに深められつつある。第 4 章における知の「儀式化」に関する議論などは、中国史との比較をすすめていくうえでも、さらに研究の深化を期待したい部分である。
なお、『アジア遊学』第 7 号(勉誠出版、1999 年)の特集「宋代知識人の諸相−比較の手法による問題提起」は、鈴木董氏、三浦徹氏にも加わっていただいた宋代史シンポジウムの記録である。イスラーム史と中国史の間で、今後も、更に実りある議論が展開されることを期待している。(和歌山工業高等専門学校・岡 元司)
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『ローマ人の愛と性』
本村凌二
講談社現代新書、1999年
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最初の章「この世は恥辱と悪徳に満ち満ちている」を読んで度肝を抜かれた。私が無知だっただけだが、古代ローマ世界では、性に対する考え方や行動がいかに後代と異なっていたかをあらためて認識したからである。それにしても、通常「閨房の秘話」としてひそやかに語られることの多い男と女、男と男の性交渉の経過や顛末が、かくもあっけらかんと文献の形で残されているとは・・。古代ローマとは何とも面白い世界である。イスラーム世界やそれ以前の古代オリエント世界については、どの程度愛や性に関する情報を集めることが出来るのだろうか。『千夜一夜物語』という「例外」はあるが、少なくとも、ポンペイの壁に残された庶民の落書きのごとき興味深い生の史料には、私はまだお目にかかったことがない。
もちろん、この本を書いた著者の真意は、決してローマ人の愛や性を面白おかしく語ることではない。帝政初期を境としてその前後でローマ人の心性が大きく変化し、「内面を見つめる」という態度が顕著となってくること、そしてその変化こそ後にローマ社会がキリスト教を受容する一因となったということこそ著者が強調したかった点である。しかし、個人的な感想を述べれば、まず何よりも赤裸々な性に関する史料、しかもかなり「非道徳的」とも言える行為の記述に目が眩んだ。そのような世界が過去に確かに存在した、ということをはっきりと頭に入れることができただけでもこの本を読んだ価値があったと思う。著者が、「古代」はそれ以後の世界とは一線を画する「もう一つの世界」なのだ、と明言している点も興味深い。現代まで歴史が連続的につながり、どこかで現代を意識しながら研究が行われているイスラーム世界との違いがそこにある。
ローマが支配した地域のかなりの部分が、今日ではイスラーム世界に組み込まれている。その意味では、ローマ史はイスラーム世界史と決して無縁ではない。ローマからイスラームへとつながってゆく地域では、性に関する意識や行動はどのように変化したのだろうか。色々なことを考えさせてくれる本である。(羽田正)
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『中東和平への道』
臼杵陽
山川出版社、1999年(世界史リブレット52)
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中東という地域概念や中東における言語、宗教の問題から説き起こし、19 世紀の「東方問題」からアラブ・イスラエル紛争を経て現代の最終的地位交渉に至るまでの経緯をコンパクトにまとめた概説書。パレスチナ問題の複雑さ、根の深さ、それに解決の困難さにあらためてため息が出る。中東地域の歴史にそれなりの知識を持っている人にとっては、おさらいにもってこいの内容である。事件史としてはかなり詳細だし、重要な問題については注も含めて解説が付されているからである。少なくとも私にはずいぶん参考になった。しかし、そのことは逆に言えば、わずか原稿用紙 100 枚の中にあまりにも多くの事項が盛り込まれ過ぎていることをも意味する。このシリーズが対象とする初学者が本書を読み通すのはかなり困難ではないか。経過ではなく、原因だけ、または現状だけにテーマを絞って記すのも一つの方法だったかもしれない。また、著者の忙しさを象徴しているかのように、校正ミスが多い。出版社も含めてもう少し慎重な本づくりを心がけてほしかった。(羽田正)
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『地中海の覇者―ガレー船』
アンドレ・ジスベール、ルネ・ビュルレ著/深沢克己監修/遠藤ゆかり、塩見明子翻訳
創元社、1999年(創元社〈知の再発見〉双書)
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豊富な情報と美しい図版で定評のある創元社<知の再発見>双書から、興味深い書物が訳出された。五つの章からなる本書は、二人の著者の専門を融合させながら、中近世の地中海で活躍したガレー船について、造船・艤装・航行(戦闘)の技術と歴史的な推移を生き生きと描く。
近年、歴史家の一部は海へひらかれた視界をもち、そこで生きる人間と彼らがもちいた道具や技術を考察している。本書は、こうした問題関心にこたえ、ガレー船造船の中心地であったヴェネツィアの国営造船所の繁栄や乗組員徴集のための手続き、櫂と帆を併用する航行技術の改良を示して、ひとつの海を制覇した船舶の輝かしい歴史を長期的に描出する。また一方で、原著タイトル (Gloire et misere des galeres) にある「悲惨」な歴史を、船の漕ぎ手になった徒刑囚の苛酷な運命をたどりながら表している。読者は、歴史の大きな流れをつむぎだす人間のいとなみを、あらためて知ることになるだろう。
なお、本文および資料篇で示されるバルト海のガレー船についての記述は、地中海以外の海で利用される船舶の歴史を考える上で有益であるし、また用語解説(180-182 頁)は、海上貿易研究者が直面しがちな史料読解時の困難をやわらげてくれるだろう。(藤井真理・西南学院大学文学部非常勤講師)
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『西洋世界の歴史』
近藤和彦編
山川出版社、1999年
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本書は、「大学生の信頼できる教科書」「確かな知識を求める教養市民のための書物」として企画されたという。しかし、一読すればすぐに気づくように、これは決して単なる教科書ではない。西洋世界に対する新しい見方を提案しようとするきわめて高いレヴェルの概説書である。先日、ある私立大学の西洋史の先生にうかがったところでは、「あまりにレヴェルが高すぎて、学生用の教科書としては難しすぎる」そうである。そうかもしれない。しかし、逆にいわゆる歴史研究者にとっては、これほど面白い書物はそうざらにはない。
近藤和彦氏の序文を読んだ読者はまず、西洋史研究者は、自らの研究対象をここまで客観的に捉え、バランスの取れた記述をするようになったのか、と、驚くだろう。以下の本文で語られる「西洋史」は、かつてのヨーロッパ中心史観に基づいたそれとは相当異なっており、私は大いに共感を覚えた。本書の特に近代以前の部分に明瞭に現れている問題関心は新鮮であり、そのままイスラーム世界史研究へとはねかえってくる。もはや仲間内での議論は許されない。西洋史研究者と真剣に向かい合って語り合うことは十分に可能であり、彼らの議論はむしろ私たちイスラーム世界史研究者に大いなる刺激を与えてくれるだろう。イスラーム世界史研究者が、西洋史研究の「偏向」を指摘していればそれで事足りた時代はすでに遠い過去のこととなったのである。(羽田正)
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『ビザンツ―幻影の世界帝国』
根津由喜夫
講談社、1999年(講談社選書メチエ154)
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12 世紀ビザンツ帝国史に関し全くの門外漢である評者は、中公世界の歴史『ビザンツとスラヴ』の前半部を一読し、ビザンツ通史を頭に入れてから本書に臨んだが、そんな下準備無しでもすんなりと論旨が飲み込めたであろう。平易な叙述に周到な分析の盛り込まれた好著である。史学雑誌 108:10 に要を得た紹介があるので、ここでは門外漢なりの感想を述べたい。
プロローグにおいて筆者は、西欧人のビザンツへの偏見と、その偏見を共有する日本の学界を批判する。イスラム研究に携わる者としては同好の士を得た思いがする。さらに本文を読み進むうち、筆者のイスラム研究への目配りが並々でないことが分かる。それは「大セルジューク朝」と「ルーム...」との適切な使い分けや「サラーフ・アッディーン」との呼称を用いるなどの些細な点に留まらず、シリア語年代記やゲニザ研究の参照にも現れている。様々な論点の中で評者の関心を引くのは、改宗トルコ人からなる皇帝直属軍を含んだビザンツの「多民族軍団」の存在である。ここにはイスラム世界における奴隷エリートの興隆との共時性を見て取れよう。またコンスタンティノープルにおける多民族共生やセルジューク朝スルタンとの「交情」などのテーマにも、興味は尽きない。/本書を貫く特長は、筆者の西欧・イスラームへの分け隔て無い姿勢である。それは、「あらゆるものをその中に受け入れて、あつく煮え立たせ、そこから滋味溢れる見事な料理を作り上げていた」(p.161)というビザンツのコスモポリタンな性格からすれば、当然の帰結かも知れない。(中町信孝)
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『納得しなかった男―エンヴェル・パシャ―中東から中央アジアへ』
山内昌之
岩波書店、1999年
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今世紀最初の四半世紀のイスラーム世界を文字通り縦横無尽に駆けた、エンヴェル・パシャの後半生を描いた著作である。主に書簡で構成される未公刊のアルヒーフを用いて、エンヴェルの活動の細部に到るまでを明らかにしたことの意義は勿論少なくないものがある。イスラーム世界の近代史研究の一環として、或いはロシア革命研究の一環として、関連する先行諸論と補い合うことも言うまでも無い。だがこうした歴史学上の価値のみを追い求めるような野心は、むしろここには必要無いだろう。著者山内氏が言うようにこの書は「伝記的研究」であるからだ。
トルコ、ロシアの変革を軸としながらも、同時代の近代日本の歩みを重ねていることも、我々日本の読者の関心を誘うであろう。多彩な登場人物も合わせて、これは即ち著者の「世界史を切り取る」試みに他ならないのである。
不満が無いわけではない。エンヴェルの最後の舞台に関してしばしば用いられる「(現在の)タジキスタン」の表現は、むしろ読者を混乱させはしないだろうか。バスマチの実態を見誤らせる危うさを持つ表現であるようにも思える。また、伝記的研究であるが故の著者のエンヴェルへの肩入れは、当然ながら読み手の側により公平な視点を求めるだろう。
だが上記のような不満も、中東、欧州、カフカースからトルキスタンへといったエンヴェルの行動範囲の広さを前にすると、取るに足らぬことかもしれない。先ずはエンヴェルの生きた時代を、その人生を味わうことができれば、それで良いように思われてくる。(東京大学大学院人文社会系研究科 野田 仁)
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The Hazaras of Afghanistan: A Historical, Cultural, Economic and Political Study.
Sayyed A. Mousavi
CurzonPress, London, 1998
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本書は、アフガニスタンにおける民族マイノリティのひとつ「ハザーラ」についての研究である。モンゴル的容貌をもち、ペルシャ語の一変種ダリー語を母語とし、宗教的にはその大多数がシーア派に属するハザーラは、パシュトゥーン 族中心の近代以降のアフガニスタンにおいて、政治的、社会的に差別され、周辺化されてきた 人々である。本書は、従来のアフガニスタン研究の中で等閑視されてきた、このハザーラの歴史や社会文化を含めた全体像を学問的に明らかにしつつ、アフガニスタンの国家と民族をめぐる問題への理解を再検討しようとしている。アフガニスタンにおける民族 ・歴史の先行研究についての議論と批判を踏まえた、きわめてオーソドックスかつ慎重な学術研究であると同時に、アフガニスタン研究への新たなアプローチの可能性をめざした研究でもあり、混迷する現在のアフガニスタン情勢の背景を理解する手がかりともなる研究であると言えよう。著者 Sayyed A.Mousavi は、オックスフォード大学で教育を受けたアフガニスタン出身の文化人類学者である。本研究により、同大学の博士号を得た。
こんにち、アフガニスタン研究は、中央アジア、中東、南アジアそれぞれの研究領域のいわば「死角」のような存在に追いやられ、我が国における研究状況もきわめて低調である。1人でも多くの研究者がアフガニスタンに関心をもち、また、さまざまな角度から活発な研究や議論が行われることが今こそ求められているといえよう。(佐藤規子)
《関連文献》
<研究動向>小牧昌平「最近のアフガニスタン近代史研究動向―ノエル『19世紀アフガニスタンの国家と部族』を中心に」『上智アジア学』第16号(1998年)。
<書評>佐藤規子「William Maley (ed.)/Fundamentalism Reborn?; Afghanistan and the Taliban, Sayyed A. Mousavi/ The Hazaras of Afghanistan; A Historical, Culural, Economic and Political Study」『PRIME』第9号(1998年)、明治学院大学国際平和研究所。
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『アジア都市の諸相―比較都市論にむけて』
友杉孝編
同文館出版、1999年
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本書は『東洋文化 特集“アジア都市の諸相”──比較都市論に向けて』(第 69 巻、東京大学東洋文化研究所、1989 年)に発表された諸論文を、あらためて公刊したものである。「10年ひと昔。何を今さら・・・」などと思いつつ購入したが、一読して、「なぜ今まで、このような形で出版されなかったのか?」と逆に問いたくなった。バンコク、バタヴィア、イスタンブール、寧波、アレッポ、マニラ等、一見脈絡のない諸都市の研究を、「アジア都市」という大胆な枠組みを設定して一冊にまとめているところに本書のすごみがある。読者はそこに、ヨーロッパ都市という「都市」の幻影にとらわれない研究の可能性を見い出すことだろう。
アムステルダム、ヴェネツィア、蘇州、東京という4つの都市を比較し「水の都」を論じた陣内論文。オスマン朝期イスタンブールの慈善施設「イマーレット」での生活を豊かに描き出した林論文。アレッポで 1850 年に発生した反乱を分析し、「まちの人びと」という共通アイデンティティの喪失を指摘した黒木論文。フィリピンの「聖週間」を、フィールドワークをもとに考察した清水論文など。それぞれの論考は単独でも十分に面白い。しかし本書の真の楽しさは、むしろ論文集として編まれていることにある。各執筆者の都市研究に関するスタンスの違いを味わうことこそ、本書の醍醐味なのである。そのためには時をおかず一気に読み終えることをお勧めする。
あえて欲を言えば、この 10 年間の日本における「アジア都市」研究の進展状況を提示してほしかった。(西村淳一)
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『世界史の第二ラウンドは可能か―イスラム世界の視点から』
三木亘
平凡社、1998年
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本書は、「ほとんど半世紀ちかくの昔」から学生に教えてきた、著者の語りによる、世界史である。ただし世界史といっても、それは、概説の類ではなく、著者のいう「歴史生態学」の視点から世界の歴史を捉えなおしたものである。「未開から文明が生まれて、ひろがり、そうして文明がいわば飽和状態に達すると、文明が野蛮をうみだす、いまわたしたちは野蛮の時代のまっただなかにいる」という著者の世界史認識によってつづられる世界の歴史は、西洋に偏重して叙述・認識されてきた従来の世界史像の再考を読者に語りかけるものである。また、“「つきあい」のネットワーク”と題された、本書の第二部にあたる部分では、イスラム史を中心として、都市やネットワークなど現在のイスラム史研究で活発に論じられている様々なテーマを取り上げ、著者の長年にわたる研究およびフィールドワークによって裏打ちされた独自の見解をもとに、今後イスラム世界を考察してゆく上での示唆的な発言が展開されている。「つねに世界ないし世界史の文脈で考える」ことを心掛けてきた著者は、本書を通して、専門・細分化されつつある歴史学研究において、ともすれば狭い範囲に陥りがちな研究姿勢を、改めて見つめ直す契機をわれわれに与えてくれる。(中央大学 栗山保之)
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