文献短評

 
 
 
浴場から見たイスラーム文化』

杉田英明
山川出版社、1999年

 イスラーム文化とは、先行する諸文化の融合体が発展して成立した文化であり、諸文化は、イスラームという統一的な枠組みの中で、その多様性を保持し続けている。すなわち、イスラーム文化の特徴とは、包摂される諸文化に起因する多様性と、その枠組みとしてのイスラームの持つ統一性という矛盾した性格である。

 著者は、イスラーム文化の持つ多様性と統一性を、詩を含む多くの文学作品からの引用を挙げつつ、浴場施設という具体例を通じて明らかにしている。すなわち、浴場文化とは、ギリシャ・ローマ文化の伝統がイスラーム文化によって継承され、発展したものであり、イスラーム文化が諸文化の融合文化として発展してきたことを示唆している。また、浴場文化がイスラーム世界共通の文化として広く存在し、現代まで存続し続けていることを指摘することにより、イスラーム文化がその多様性の中において統一性、共通性を保持し続けて現代に至っていることを明らかにしている。また、西洋における浴場文化が、イスラーム文化との接触をきっかけとして発展してきたことを明らかにすることにより、イスラーム文化が他の諸文化に与えた影響を指摘している。そして、イスラム世界とは比較的接点の少なかった我が国においても、浴場文化があったことを指摘することにより、高校生、初学者のイスラーム文化への興味を喚起するのみならず、我々にも改めてイスラーム文化の持つ多様性と統一性を再認識させる。なお、本書と同様、浴場文化を通じてイスラーム文化への理解を深めることを試みた文献として八尾師誠(編・著)『銭湯へ行こうーイスラム編』(TOTO 出版 1993 年)が挙げられる。(太田啓子 お茶の水女子大学・院)

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『革命イランの教科書メディア

桜井啓子
岩波書店、1999年

 
 読みごたえのある、しかしすっきりした感じの研究書。スラスラ読める文章につられて、一気に読み通してしまった。1963 年に国定化されたイランの文系教科書の記述を、王制期、革命後約 10 年、アヤトッラー=ホメイニー没後、の 3 つの時期にわたって分析し、そこに生々しく反映されている国家のイデオロギー政策を明らかにしている。分析の軸として取りあげられているのは、国家権威の表象、共同体のイメージ、服従の形態といった諸テーマである。少しはイランをかじったことのある者にとっては、いちいちさもありなんと思われる分析がなされており、自分の素人的理解が権威づけられ嬉しかったが、まさにそれゆえ、イランのイデオロギー政策の研究に対するこの教科書研究独自の貢献がどの辺りにあるのか、全体として分かりにくいようにも思った。美しい表紙に惹かれて買うには少々高価な本だが、勇気を奮って可。投資に見合う面白さである。(森本一夫)

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『世界史のなかのマイノリティ

田村愛理
山川出版社、1997年(世界史リブレット53)

 
 包括的、総合的、悪く言えばやや漠然とした題名だが、扱うのは主にイスラーム世界におけるユダヤ人・アルメニア人ら「交易離散共同体」の歴史である。世界中の様々な都市を拠点とした両民族のダイナミックな活動を、点と点を結ぶ彼らの交易活動さながらに、事例をつなぎ合わせて鮮やかに描き出している。イスラーム世界でのマイノリティの広範な活動について本書では、もっぱらイスラームの宗教的寛容性で説明する従来の研究に疑義を呈し、商業ネットワーク社会では異文化間交易に携わる仲介者の存在が不可欠だったという、機能主義的解釈をとる。また第4章のチュニジア・ジェルバ島ユダヤ人共同体の事例は、前近代イスラーム世界の現代版縮図とも言える環境の中でのマイノリティのあり方を示していて興味深く、またそこから抽出される「棲み分け/共生」モデルは、多くのマイノリティ研究にも示唆を与える有用なものである。しかし、必ずしも「交易」離散共同体とは言えないジェルバ島ユダヤ人を例に取るのは本書前半との整合性を欠く観があり、それだけに著者の実地体験に基づく数々の情報も面白味を半減させられている。包括的命題を冠する本書であれば、なにも交易離散共同体に固執する必要はない。例えばエジプトのコプト教徒やマグレブのベルベル人などの非・交易離散共同体をもより積極的に比較の視野に入れれば、ジェルバ島の事例もまた新たな意味を帯びてくるのではないだろうか。(中町信孝)
 
 久々に感動を覚えた好著である。イスラームの持つ宗教的寛容性が、多くのマイノリティが存続することを可能にしたことは従来の研究においてしばしば指摘されてきたが、筆者によれば、マイノリティこそが共存を可能にするシステムとしてイスラームを選択したのであり、ここではマイノリティは共存を許される受動的な存在としてではなく、自らイスラームというシステムを選択したものとしての能動的な存在として描かれている。もしマイノリティが単に受動的な存在であったならば、初期の段階ではムスリムが少数派であった地域(北アフリカ、東南アジアなどのイスラム辺境地域)においてどうしてイスラームがシステムとして受容されたのか?非ムスリムである先住者が、己を含む多種多様な人々の共存を可能にする、調停者の役割を果たすシステムとしてイスラームを能動的に受容したからこそ、イスラームというシステムはこれほどまでの地域的広がりを見せたのではないか?ここには、自ら選択者として能動的に行動するマイノリティの姿が描かれている。そして、多種多様な人々が共存するイスラーム的社会のモデルとして、筆者は自らのフィールドワークの地である北アフリカ・ジェルバ島を取り上げ、今後の世界史における多様な人々の共存の可能性を追求する上で、システムとしてのイスラームを検討することの重要性を説いている。むろん本書にも問題点はあるが(例えばp.13 の図は、イスラームに初めて接する高校生に、イスラームを排他的で、共存を許さないシステムと理解する危険性を与えている)、評者は筆者の考えに共感するあまり、本書を読んで約一週間は、イスラームに関心のない知人に対しても本書についてしゃべり続けた。(太田啓子)

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『王書 古代ペルシャの神話・伝説

フェルドウスィー著/岡田恵美子訳
岩波書店、1999年(岩波文庫(赤786-1))

 
 『王書(シャー・ナーメ)』から、その眼目とされる、神話上の諸王とロスタムなどの伝説的な英雄に関する部分を訳出した抄訳。原文の詩形にこだわらずに散文で訳したことや、註を最小限に押さえたことは、文庫版という形態とともに、この作品をより親しみやすく、読みやすいものにしている。また、単に読みやすいだけでなく、巻末の解説で、成立背景や全体の構成などに関する概説的な知識を提供し、理解を深める手がかりを与えるという配慮も見られる。以上の点から、ペルシャ文学を代表する長編叙事詩を、広く日本の読者に紹介する上で、本書の意義は決して小さくないと言えよう。しかし、『王書』の邦訳は既に幾つか出されており、その何れもが本書で扱われた部分と重なる。このことは、長大な『王書』の中で、この部分が最も読まれてきたことなどから考えて、ある程度仕方のないことであろうが、最新の邦訳である本書に於いても、『王書』のもう一つの側面、「歴史物語」の部分が全く訳されていないことは、少し残念にも思われる。

 ちなみに、これまでに出版された『王書』の邦訳としては、最も代表的なものとして、黒柳恒夫訳『王書(シャー・ナーメ)-ペルシア英雄叙事詩』(東洋文庫150)平凡社(1969)が、また、完全な翻訳ではないが、内容を紹介したものとして、同『「王書」(シャー・ナーメ)より ペルシアの神話』泰流社(1989)(絶版)がある。(森山央朗 東京大学・院)

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内陸アジア史の展開』

梅村坦
山川出版社、1997年

 
 何はともあれ、「内陸アジア」という広大な地域の歴史が、わずか原稿用紙百枚程度で簡潔にまとめられている点で称賛に値する。内容は、東西トルキスタン、モンゴル、およびチベット(ただし著者はチベットを地理的には「内陸アジア」に含めていない)の現在について触れ、その歴史を、トルコ、イスラーム、チベット仏教という 3 つの「文化基層」の形成過程をたどることによって整理したものである。特にチベット仏教を取り上げている点に著者の「内陸アジア」観が窺える。しかし、「内陸アジアは、もともと多種類の文化と人間集団が入り交じるボーダーレスの歴史をもっていた」(p.87)と締め括るならば、なぜ現在、国境線が存在するのかと改めて問いたくなる。故に近現代史の領域にもより深く踏み込んでほしかったが、この枚数でそれを求めるというのは酷というものか・・・。 (西村 淳一 九州大学大学院博士課程)

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『イラン近代の原像

八尾師誠
東京大学出版会、1998年

 東大出版会の「中東イスラム世界」シリーズ完結編。全体は I 「場の表象」と II 「革命の心性」の二部から成る。I では、西川長夫の提唱する「国民統合の諸条件」を下敷きにして、それらが今日の国民国家イランの形成にどのような役割を果たしてきたかが検討される。また、分断され、トルコ語が日常会話に使われるアゼルバイジャンという一地域が、いかに国民国家イランに統合されていったのかも論じられる。充実し、読み応えがある。それに比べると、本編であるはずの II は、分量的にも、内容的にもややもの足りなく感じる。一般向けの書物なのだから、本の題名であるサッタール・ハーンの思想や行動、そして立憲革命の意味などをもっと詳しく、かつ、分かりやすく論じてもよかったのではないだろうか。(羽田 正)

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『アブー・スィネータ村の醜聞

加藤博
創文社、1997年

 「けたたましい本」という東京大学某教授の評もあるが、けたたましいだけではなく、優れた歴史記述の本だと思う。偶然見つけた百年以上前の文書に出てくるある村の村長職をめぐる争いが、今もなおその村の人々に記憶され、村社会に影を投げかけているということを知れば、誰でも興奮してある程度はけたたましくなるだろう。文書研究と現地調査を結び付けて歴史を考えようとする著者の熱い思いがひしひしと伝わってくる本である。(羽田 正)

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オスマン帝国の時代』

林佳世子
山川出版社、1997年

 加藤氏の本が荒れ狂う波涛を想起させるとすれば、この本はそれとは対照的に、静かな湖の鏡のような水面を思わせる。著者の思いは水面下に深く潜行し、叙述は淡々と進む。しかし、その内容は実はきわめて革新的で、随所でこれまでのオスマン朝史理解の見直しをさらりと提言している。記述が現在のトルコ地域に偏っているとか、文化についての記述が少ないとか、批判はありえようが、わずか原稿用紙百枚にこれだけの内容を盛り込んだ著者の力量に拍手。(羽田 正)

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イスラーム世界の興隆』

佐藤次高
中央公論社、1997年

 中央公論社『世界の歴史』シリーズ全 30 巻には、イスラーム関係として三巻が用意された。本書はそのトップ・バッターで、イスラムの勃興から 15 世紀までを扱う。30 数年前の前回のシリーズでは、全 16 巻のうちに『西域とイスラム』(岩村忍)という巻があるだけ。463 頁のこの本の中で本書の内容にあたる部分はわずか 60 頁ほどにすぎなかった。この間わが国におけるイスラーム世界史研究がいかに進んだかを知るために、本書と岩村氏の本を比べて読んでみるのも面白い。(羽田 正)

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『ムガル美術の旅

山田篤美
朝日新聞社、1997年

 ムガル美術と建築に関するわが国でほとんど初めての本格的な書物。一般向けだが、内容はきわめて濃い。著者は邦文、外国語の基本的な文献を丁寧に読み、チャハール・バーグの起源、ペルシア文化圏で青色が好まれた理由、ムガル朝初期に肖像画が量産された理由などについて、大胆な仮説を提唱している。イスラーム世界史研究は盛んになったけれども、美術史や建築史など文化史の研究はまだまだこれから。その意味でもこのような本格的な本の出版は喜ばしい。(羽田 正)

 本書の存在は、この短評以前から本欄に掲載されていた羽田正氏の短評などによって知っていたが、縁あってこのたび著者の山田氏と「メル友」となる機会を得、ありがたくも恵贈を受けたのを気に通読した。

 ムガル美術という、日本ではおそらく正面から扱われたことのないテーマを取りあげて、その様々な特徴にはつらつと思いを馳せ、大胆な起源論を展開していく著者の姿は、読む者に好感を与える。そして、実際にいろいろなことがよく調べられていると思う。いつの間にか、昼間のデリー観光に疲れビールでもと座り込んだホテルのロビーで、著者に「ムガール美術夜話」を聞かせてもらっているような気分にさせてくれる本である。インドに知的観光旅行に出かける向きには特にお奨めの本と言えよう。『ムガル美術の旅』は、実に適当なタイトルだ。

 もちろん、本書は一義的にはエンターテイメントの本であるから、著者の大胆な仮説はあくまで仮説に留まるものが多い。仮説の多くは起源探しに関わるものだが、歴史畑ガチガチの私のような人間は、それぞれの仮説の論証を読みながら、危なっかしくておっかないという思いとともに、その堂々とした危なっかしさがうらやましいという気持につきまとわれることになった。

 山田氏は本書刊行後も研究を続け、近く某学術雑誌に論文を載せられると聞いた。危なっかしさをものともせぬ飛翔の次には地べたを這ってそれを論証する、どうやら山田氏、なかなかのくせ者のようである。論文の刊行を楽しみに待つこととしよう。(森本一夫)

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