「緑禍論」という言葉をご存知であろうか。日本人などの「黄色人種」に対する憎悪と恐怖心を示す「黄禍論」から転用されて、欧米キリスト教社会でのイスラムへの嫌悪感を指すようになった。緑はイスラムの象徴する色である。緑禍論は「イスラムの脅威」論とコインの表裏の関係にある。ソ連が崩壊して冷戦が終わったとき、共産主義という「赤禍」がなくなると、新たな「敵」としてアメリカでは「緑禍」がささやかれ始めた。

 アメリカ人の一部にはイスラムという宗教そのものがテロを生み出しているかのように考えている人がいる。事件後、米国でイスラム教徒への嫌がらせが急増しているところにもその偏見が現れている。無知が憎悪や恐怖心を生み出していることだけはたしかである。

 しかし、欧米社会でのイスラムへの憎悪と恐怖心に歴史的な理由がないわけではない。中世にはイスラム世界がヨーロッパ・キリスト教世界を軍事的にも文化的にも凌駕していたからだ。十字軍は東西貿易でのイスラムの脅威を排除する試みであり、大航海時代の始まりは貿易路を阻む当時のイスラム世界の雄、オスマン帝国を迂回し、包囲するためだった。そのオスマン帝国は十七世紀末にヨーロッパに侵攻したがその軍勢はウィーンで押し止められた。ヨーロッパはウィーン包囲の苦い経験を歴史的な記憶として共有している。

 ヨーロッパはイスラムを好戦的な宗教として「コーランか、剣か」、つまり「信仰か、戦争か」と一方的に断罪したが、自らの尺度で偽りのイスラム像をねつ造したものだった。正確には「コーランか、剣か、それとも納税か」とすべきであろう。というのも、イスラム統治下のキリスト教徒やユダヤ教徒などは「啓典の民」として税金を払えば(むろん重税の場合もあるが)生命の安全と宗教的自治が保障されたからであった。宗教が生活のすべてを律していた当時の基準からいえば、異端審問で処刑まで行なった中世カトリックよりもイスラムはずっと寛容な宗教だったというのが研究者の共通の認識であるといえる。

 近代に入ると両者の関係は逆転した。イスラム世界はヨーロッパの植民地となったからである。帝国主義に対抗するために十九世紀末から二〇世紀初頭にかけて列強の従属下にあったイスラム教徒の連帯を唱える汎イスラム運動が活発化した。現在のイスラム復興運動の起源である。しかし第二次世界大戦以降、民族国家としての独立を求める世俗的な民族解放運動が隆盛したためにイスラム復興運動は歴史の表舞台からは姿を消した。ところが一九八〇年代以降、世俗的民族解放運動の挫折からイスラム復興運動が再びイスラム教徒の心を捉えていった。イランでイスラム革命が起こり、アフガニスタンでは義勇軍として世界から駆けつけたムスリム武装勢力がソ連軍を追い出したからだった。この時のアフガン・ネットワークがテロをも辞さない国際イスラム武装組織として発展していった。その中心人物が今回の事件の容疑者と目されるオサマ・ビン・ラーディンであった。

 ビン・ラーディンは湾岸戦争時にメッカ、メディナを擁するイスラムの聖地に米軍を駐留させたサウジアラビア王家に警告を発した。しかし彼は国籍を剥奪されスーダンに亡命すると、一九九八年にアメリカへのジハード(聖戦)を布告した。アメリカ人であれば軍人、民間人を問わず殺害し、財産を奪え、というファトワ(宗教裁定)を下したのである。彼は米人記者によるインタビューで、米国がその根拠としてあげたのが広島・長崎への原爆投下という無差別殺人であった。このようなテロの正当化は日本としては迷惑千万である。建設会社を親から引き継いだ土建屋ビン・ラーディンは当然、日本の技術水準を熟知しているはずであり、原爆投下を引き合いに出すからには「カミカゼ」に関しても知識があったにちがいない。アメリカと戦った唯一の国である日本というアラブ一般の断片的な知識を考えると、今回のテロの際、真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた旧日本帝国海軍の先例が彼の脳裏によぎったと想像するのもあながち的はずれではないのかもしれない。

 イスラムではジハードにおいて殉教者(シャヒード)になれば天国(ジャンナ)に行くことができる。コーランでは「神と使徒を信じ、神の道でおまえたちの財産や生命をかけて戦いにはげめ。・・・そうすれば、神は必ずおまえたちのために罪をお赦しになり、下を河川が流れる楽園に入れて、エデンの園のりっぱな住まいに住まわせスもうだろう。これこそ偉大な勝利である」(中央公論社版『コーラン』第六一章一一-一二)と記されている。この一節を文字通り信じて自爆テロに赴く若者が増えている。

 もちろん、ジハードはムスリム一人一人の義務ではあるが、武装闘争だけではない。ムスリムとしてできることを行うのがジハードの本来の意味であり、女性や子供など無辜の民を傷つけることは禁止されている。そう考えると今回のテロはイスラムの大義にもとる卑劣な行為である。今回の事件を機に、テロと報復という悪循環のなかで異文化を理解しようとする、それこそ文明間の対話の契機が失われてゆくことを強く懸念するのである。