文献短評

 
 
 
『ネットワークのなかの地中海』

歴史学研究会編
青木書店、1999年

 歴史学研究会による大型企画、「地中海世界史」シリーズ全 5 巻の第 3 巻目にして、第 1 回配本となったのが本書である。本書冒頭「刊行にあたって」によれば、本シリーズは「通史」と「個別テーマによる研究」の 2 つの柱から構成され、前者は第 1 ・ 2 巻、後者は第 3 ・ 4 ・ 5 巻からなる(p. 5)。青木書店作成のチラシに記載されている執筆者を数えると、総勢で 51 名にのぼった。「ヨーロッパ史研究者とイスラム史研究者の共同作業の賜物」(p. 6)であるこのシリーズ、完結したら、日本における「地中海世界史」研究の、ひとつの大きな里程標となることはまちがいない。

 本書の目的は、地中海世界において育まれた「異質な要素を取り込む開かれた秩序と統治のシステム」を物質文化の中に探ることにある、という(加藤博氏による「序」p. 18)。構成は「商業ネットワーク」・「国家と社会経済システム」・「都市における救貧と福祉」の 3 部に分かれ、11 名の執筆者が、それぞれの専門から論考を寄せている。最初は、全地中海世界を支配下においたローマ帝国における商業ネットワークに関する論文から始まる。つづく中・近世の商業ネットワークが、全てヨーロッパ史研究者によって扱われているのは、この時期に西ヨーロッパ商人が地中海商業において主導的役割を果たしたことの反映といえよう。いっぽう「国家と社会経済システム」の 3 論文が、全てイスラム史研究者によるのは、商業ネットワークの結節点において、イスラムの政治社会システムが果たした機能を強調するためであろうか。地中海世界における社会秩序を扱うテーマとして「救貧と福祉」が設定されたことは、評者にとって新鮮であった。ワクフ制度も、「一神教の理念」(「序」p. 24)という共通項によって、キリスト教社会の寄進・慈善制度と比較しうるのである。

 本書において提示されるのは、あくまで、地中海世界における多様かつ重層的な、幾多の変容を重ねてきたネットワーク上に現れる、個々の具体相である。各々の論文の内容は、「ネットワーク」を意識しつつも、必ずしもこの言葉に規制されていないところがいい。将来、巨視的・通時的な「地中海ネットワーク論」が生まれるとしても、まずは、個々の具体相ひとつひとつが丹念に検証されなければならない。本書の題名は、おそらくはそのような意図を反映させて、つけられたのではないかと思う。ともあれ、本書だけでも充実した内容だけに、引き続き刊行される巻を手に取るのが楽しみである。(堀井 優)

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『中世インドの歴史』

サーティシュ・チャンドラ著/小名康之・長島弘訳
山川出版社、1999年

 本書はインドにおける第十一年次(日本の高校二年)向けの教科書、Medieval India :A History Textbook for Class XI, National Council of Educational Research and Training, Delhi, 1978, Revised Edition, 1990. の邦訳である。高校生向けの教科書の翻訳と侮ってはいけない。八世紀から十八世紀までのインドの歴史に関し、政治・経済はもとより建築・美術に至るまで幅広くカバーした概説書である。本書を読むと、いかに中世インドが歴史的・文化的に複雑な世界であったかが見えてくる。ヒンドゥー文化、ムスリム支配、インド洋からのヨーロッパ勢力の登場等、非常に多くの土着・外来の要素がどのように混成・対立・消滅を繰り返しながら多様性を包摂した中世インド社会が成り立っていたかを考えると、興味は尽きない。インドの経験した「流転」について大いに考えさせられた。インド中世史入門・概説書として読むべき一冊の内にあげられるだろう。ただ、叙述が非常に詳細な反面、分量が多く、初学者が通読するには少々困難を覚えるかもしれない。対象とする読者の層を考えれば、「読ませる」という工夫が欲しかったが。

 昨年出版された『ムガル帝国から英領インドへ』(中央公論社刊)と併せて読めば、更にインドへの理解が深まるし、視点の違いなども見出せて面白い。(杉山 隆一 青山学院大学研究生)

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『古代エジプトを発掘する』

高宮いづみ
岩波新書、1999年

 著者は冒頭において「我々の作業はインディー・ジョーンズのように派手なものではなく、もっと地道で、つらく、根気のいるものなのだ」という趣旨のことを書いているが、「エジプト学」なるものの研究自体がど派手だと思えるのは評者のみであ うか?

 内容は、実際に行われた早稲田隊のエジプト・アブシール南丘陵発掘についての一般向けレポートである。文章は歯切れが良く、すらすらと読める。時に読むに耐えない口語表現もあるが、御愛敬である。調査過程に沿って話が展開するので、読み進むほどに期待感が生まれる。また、多くの個人名が出現し、現地へ行く機会のある者には面白みがあろう。

 さて、この種の読み物は、イスラーム関連の研究を行う者にとっては手を出しづらい類のものであるが、このような「エジプト学」の知識を、イスラーム研究の見地からどのようにとらえるかという点は重要であろう。その文化の連続性の強調はナショナリズムに直結する危険をはらみ、本書でも盛んに用いられている「エジプト」「エジプト人」なる言葉がその危険を象徴する。しかし、近代以前のイスラーム期の「ミスル」であれ、古代王朝の遺跡に関心を示す人々がいたことは史料から窺えるのであり、そこに住む人々の意識に何らかの影響を及ぼしたことも想像できるのである。本書を読んであらためて「エジプト」なる存在を考えてみるのも一興かもしれない。

 歴史家も史料という広大な大地を地道に発掘していると考えれば、あながち縁遠い世界の話でもあるまい。(西村 淳一)

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『イスラーム世界の危機と改革』

加藤博
山川出版社、1997年

 本書において著者は、近代における国際政治の展開が、イスラーム世界における権力・権威システムの動揺と、ムスリム住人のアイデンティティの危機をもたらし、これらの「イスラームの危機」についての自覚が、イスラーム改革運動へとつながったと述べている。この危機と改革運動を理解するに当たって、著者はまずイスラーム世界の住民がダール・アルイスラームの概念に示される統一的な世界観と、多様な住民構造に起因する複合的な帰属意識という、相反する二つの要素を内包していたことを指摘する。そして、イスラーム世界の近代の始まりは、ヨーロッパとの接触を契機とするが、イスラーム的な国家や社会、人々の精神構造が、単線的に「近代」的なものへと変化したわけではなく、抵抗運動の一形態として様々な改革運動が起こったと述べている。続けて著者は、国際政治とイスラーム世界双方の変化に伴い、伝統的なイスラーム統治システム(そしてイスラーム的社会共存システム)が破綻し、イスラーム世界がヨーロッパ近代の政治概念である国民国家をモデルに現在のような国家群へと再編されたこと、その過程において発生した混乱が、現在の国際政治、経済に大きく跳ね返ったことを明らかにしている。すなわち、著者曰く、「イスラーム世界における紛争は、従来指摘されてきたような宗教・民族対立に起因するものではなく、きわめて現代的な問題に起因するもの」なのである。

 本書は加藤博氏の著作を初めて読む読者に勧めることが出来る好著である。唯一の問題点は、本来この世界史リブレットシリーズが読者層として想定している高校生が、著者が本書においていわんとしていることを理解することが可能であるか否かという点のみである。加藤博氏の多元的ワールドの魅力にとりつかれた読者には、次なる課題図書として、『文明としてのイスラーム ―多元的社会叙述の試み』(東京大学出版会 1995)を読むことを勧める。(太田啓子)

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『ハードアカデミズムの時代』

高山博
講談社、1998年

 深沢克己氏の紹介(『史学雑誌』107-12)によって本書を知り、ぜひ読んでみたいと思った。しかし、なかなか書店の本棚で見つけることができず、ようやく入手したのがごく最近。読み始めると期待に違わず大変面白く、一日で読了してしまった。冒頭で語られる近未来における日本の大学の寒々とした風景は、決してありえないことではない。大学に身を置く者として、同じ歴史研究者として、多くのことを考えさせられた。色々批判はあろうが、現在進行中の大学改革への真摯な提言として、関係者は襟を正して読むべし。もう一度研究や授業にまじめに取り組もうという気になること、請け合いである。それにしても、「ハードアカデミズム」の旗手たらんとする著者に、東京大学はそれにふさわしい環境を用意しているであろうか。暗澹たる思いがする。(羽田正)

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『イスラームのとらえ方』

東長靖
山川出版社、1996年 (世界史リブレット15)

 “イスラームとは何か”を平易に説いた入門書である。著者は、砂漠の宗教、厳しい戒律、といったイスラームに対する誤ったイメージをまず払拭してから、唯一神アッラー、六信五行などの基本タームの解説にはいる。更に、「クルアーンとムハンマド」「イスラーム法」「スーフィズム」「シーア派とスンナ派」「イスラームと政治」について柔軟な説明を行ない、豊富な比喩を用いて、“歴史”と“現在”の時間軸を自由に往復しながら、読者をイスラームの総合的・立体的理解へと導いていく。倫理・世界史担当の高校教員には必読の書である。アッバース朝カリフの存在を「みかんを包んだ風呂敷の結び目」になぞらえた説明は高校生をなるほどと唸らせた。一般の人を対象とした巧みな比喩が、時として“摩り替え”になるきらいはあるものの、とかく理論武装に陥りがちなイスラーム関係の研究者にも、イスラームの本質を考え直すよい機会を提供している。(中村妙子)

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『勲爵士シャルダンの生涯―十七世紀のヨーロッパとイスラーム世界』

羽田正
中央公論新社、1999年

 ジャン・シャルダンは、多くのペルシア史学徒にとって、「17 世紀後半の旅行記作家」に過ぎない。ところが、この本では、ペルシア史家・羽田正が「シャルダン史家」と化し、したたかな商人としての姿、哀れな父親としての顔などを通して、この旅行家を、一人の等身大の人物として描くことに成功している。シャルダンのイギリスでの後半生をも丁寧に記述したこの本の一番の意義は、まずはこの点にあると思う。さて、副題にあるように、この本では、シャルダンの生涯を材料にしての、十七世紀のヨーロッパ社会とペルシア社会の比較も試みられている。一般の読者を想定したこの比較論であるが、評者には、少しペルシア側に点が甘いのではないかと思われた。著者の論調は、当時のペルシア社会の宗教的寛容とヨーロッパの非寛容を対比するものであるが、一般化の可能性の可否も含めて、このような主題に関する比較の視点からの考察を主観を排して成功させるには、まだまだクリアせねばならぬ問題があるように思う。最後にぜひ一点加えておきたい。この本の隠し味は、「人物・羽田正」である。著者はこの本において、シャルダンの父性愛に共感し、強欲に辟易する自分を隠すことがない。この本は、羽田氏を知る人にとっては「いかにも羽田氏らしい」著作であるし、氏を知らぬ人にとっては、シャルダンとともに氏の人柄にも迫ることのできる絶好の一書といえよう。(森本一夫)

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『イスラームの都市世界』

三浦徹
山川出版社、1997年(世界史リブレット16)

 アラブ都市、なかんずくシリアの諸都市を主な材料に、わかりやすく「イスラームの都市世界」のしくみが紹介されている。袋小路、市壁といったハードウェアから、「政治権力と社会的ネットワーク」にいたるまでの広範な諸問題が、簡潔に記述されている。しかも何気ない構成にしたがって読み進めると、著者の考える「イスラームの都市世界」の理念型が、目の前に立ち現れてくる気がするから不思議である。ただし、初学者がこの本を読むに当たっては、タイトルのみにつられて、「イスラームの都市世界」とはすなわちこれである、と早合点しないようにしてほしい。なるほどこの本で扱われる個々の事象はイスラーム世界においてひろく普遍性を持ち、それをまとめて説かれるこの本の「立体的な」理念型にも一定の普遍性があるのは間違いないが 、しかし、ここで描かれているのは、あくまでマムルーク朝期のシリア都市を材料として導き出された都市像である。あまりに美しく構成された理念型に魅せられ、著者の意図を読み誤らないようにしてほしいものである。ところで評者は、コネと世渡りの上手さが徹底的にモノをいう私権追求社会の様子を読みながら、とてもこんなところでは生きていけないとページを繰っていた。それがついに結論部で、組織と制度を特徴とする「日本を含めた欧米型の国家」の社会も、今後は同じような私権追求社会になると暗示している一節にいたって、いよいよ悲壮な気分になった。著者は、イスラーム世界において、西欧との邂逅によって崩れた伝統的な社会のかたちを「人びとの秩序」として再生する可能性にも言及しており、評者のように悲観的ではないようである。評者としては、そのような変化が起こった場合、強気の筆者とネットワーク的関係を結び、どうにか余命をつないでゆくことにしたい。(森本一夫)

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『イスラームの生活と技術』

佐藤次高
山川出版社、1999年

 本書は、紙と砂糖の生産技術を軸に、イスラーム文明の発展を論じたもの。多くの原史料を引用しつつ、できるだけ具体的なイメージを描き出そうとする著者のいつもの叙述方法は、本書においても読者を飽きさせない。製紙技術と、紙の普及に伴う文化活動の隆盛については、第 2 章において手際良くまとめられている。砂糖については、全 6 章のうち半分以上の 4 つの章があてられ、叙述は生産技術から食文化・社会生活・商業にまで及ぶ。このように砂糖について多方面から論じられるのは、史料情報の多さにもよるのであろうが、やはり、砂糖から見えてくるイスラーム(とりわけエジプト)社会のひとつの具体像を構築しようとする著者の努力の結果と受け取りたい。白砂糖製法に関するヌワイリーの記述の科学的根拠を確認する箇所などからも、著者の砂糖に対する関心の強さをうかがうことができる。本書は、15 世紀におけるカーリミー商人の没落と大航海時代の到来に関する記述をもって終わるが、エジプトにおいてはオスマン朝支配時代も砂糖生産が盛んに行われ、ヨーロッパにも輸出されていたことを付言しておきたい。(堀井 優)

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The Mamluks in Egyptian Politics and Society

Th. Philipp & U. Haarmann編
Cambridge University Press, Cambridge, 1998

 D. Ayalon による本格的創始以来 40 年が経過したエジプトにおけるマムルーク研究の到達水準の印象形成、及び意見交換を目的として 1994 年ドイツで行われたシンポジウムの記録。ある者が年代記や相続文書を通してマムルークの蔵書に見られる知的関心の多様性を強調すれば、ある者はマムルークの子孫の経済・文化活動などあらゆる側面を検討して第一世代のマムルークが厳密な支配階級を構成していないことを実証的に論じる。討論がカットされているため意見交換については評価不能であるが、乖離しがちなマムルーク・オスマン両王朝の研究を通観でき、かつマムルークはエジプト社会における積極的参加者であるという共通理解を確認できる点で有益な論集。ただし、支配者が周縁性を有している点ではマムルーク体制は特例ではなく、五千年のエジプト歴史時代の大半が該当する。本書の有効性とは別に、エジプト社会の更なる歴史的考察が求められる。

 なお、本書の書評と称するものが存在する(By J. Goldberg, on JRAS, ser. 3, vol. 9-1(1999), pp. 147-149)が、真面目に読んだとはとても思えない。一部の論考の主題・史料を誤解している他、各論考を比較分析しようともせずに「本書では研究水準は判らないから続編を待ちたい」と断じつつ、本書におけるD. S. Richardsの議論を「国家とその文明を説明し得るであろう」と持ち上げるという支離滅裂な態度を取っているからである。(鈴木陵二 東京大学・院)

<書評> Jan Goldberg, on JRAS, ser. 3, vol. 9-1 (Apr., 1999) pp. 147-149

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